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今日の一言

曾子曰く:我、日に三たび我が身を省みる。
曾子曰く:我、日に三たび我が身を省みる。
曾子は孔子の弟子で、自らを欺くことのないように毎日、次の三カ条について何度も反省したと言う。
一、人のために何かをする場合、心を尽くしていないではないか?
二、友達と付き合うとき、不誠実なところはなかっただろうか?
三、先生から教わったことを十分に復習しただろうか?
日々の忙しさに翻弄する現代人の多くは、自分を省みる余裕も無く道に彷徨っている。モノの豊かばかりに目を奪い、不忠、不誠、そして不習いに至る人々も多くみられている。本物の価値には信心が込められていて、良き反省すればこそ廻りあえるだろう。 ちなみに『三省堂』の社名は上記の一節から引いたものである。
子曰く、性、相近し。習い、相遠し。
子曰く、性、相近し。習い、相遠し。
人の生まれもった性格は似通うものだが、その後の習わしや学習環境の違いで大きく変わっていくと、孔子は言う。
世の風習や地域の風土、そして家庭環境によって人々は育っていくもので、違いを認める前提にたってこそ、家族や地域、そして違う国同士との和が見えてくる。
その身正しければ、令せずして行わる。その身正しからざれば、令すといえども従わず
その身正しければ、命じなくても行わる。その身正しくなければ、命令を下しても従わない。
古から上の者は徳行によって衆人を動かし、徳行を施すことで長治久安が保たれた。
何せ治世は不易であり、殊に蠢く時世にはなお更かたい。
問うことを好むと豊かに広く、独断で物事を進めば道狭くなる。
問うことを好むと豊かに広く、独断で物事を進めば道狭くなる。
「中庸」第28章に、「愚にして自用を好み、賎にして自専を好む。今の世に生きて、いにしえの道を背く。此れ如き者は、災いがその身に及ぶものなり。」と書いてある。古今とは常に相通じていて、今の自分にこだわりすぎると、自惚れて躓きやすくなる。
やはり我道は慎んで且つ譲る道を尊ぶ。
故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る。
故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る。
ふるい物事を究めて、新しい知識や見解を得ることを指す。
過去在って今の世の中だが、目まぐるしい時代こそ過去を振り返り、未来ある姿に返すべきであろう。
一陽来たる、天心御なり。
一陽来たる、天心御なり。
冬至を指す言葉で太陽がこの日を境にして再び蘇る意味。易は世に全てが陰と陽に分かれ、其の働きを気という。つまり陰気が極に至れば陽気に変わり、繰り返して世界を成す。自然のサイクルと共に生きる古代人は自然の動きに合わせて一年を過ごし、暦を創った。
―太陽の恵みは古今とも変わらず大心なり。
農夫を憐れむ
農夫を憐れむ
午の盛りに禾を鋤く、汗は滴る禾下の土。皿に盛られる米は、苦労の結晶だと知らん。
 
名誉を得ても辱しめを受けても、心を驚かすことなく、庭の花が咲いたり落ちたりするのを心静かに見る。
去ることも留まることになっても、気にかけず、心は空に自由自在の雲にしたがう。
功徳海中、一滴もまた譲ることなく、善根山上、一塵もまた積むべきか。
功徳海中、一滴もまた譲ることなく、善根山上、一塵もまた積むべきか。
(海は一滴、山は一塵から成るように、功徳修行も此の一瞬からはじまる。)
上善若水
上善は水の如し、水は万物を利して而も争わず、衆人のにくむ所におる、故に道に近し最高の善行とは水のようで、全てのものに恵を施しながら争う事無く、人々の嫌がる処に就く。
―故に老子の云う道(万物の本源)に近づく。
祗園精舎
祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し
『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し』
苦しくて長い人生を生きるには、忍耐と努力をもって着実に歩んでいかなければならないということ。
因果倶時
原因と結果というものは必ず一致するというお釈迦の言葉だ。
つまり、今の自分は過去の積み重ねの中にあり、将来の自分は、これから一日一日の積み重ねの中にある。
格物致知
知を致すは物事を窮め、物事を窮めて知に至る。
格物致知とは物事の蘊奥を究め、良知を致すことにあり。
(物事はある意味で心の表れであり、物事を窮めることは心を正すことに繋がる。)
天は長く地は久し
天は長く地は久し。天地の長久なる原因は、自らの為に生きていないからである。故に長生きできる。
―無為の中に聖人は存在を成すべだと老子は指摘する。
塞翁の馬
幸福が不幸になったり、不幸がたちまち幸福になったりするのだから、人の幸不幸は予測できない ということのたとえ。一度や二度の失敗に落ち込まず、人間万事塞翁の馬というから。